はじめに——「覚悟」の時代が始まった
世界は今、かつてない地政学的な転換点に立っている。米国とイランが2026年6月17日に署名した「イスラマバード覚書」は、わずか数日でその脆弱性を露呈した。署名からわずか9日後の6月26日、米軍はイランのミサイル・ドローン保管施設と沿岸レーダー施設を爆撃し、イランは即座に報復攻撃を実施した。停戦の「枠組み」は、現実の前に無力だった。
この出来事が意味するのは単なる中東の紛争ではない。それは、日本がこれまで依存してきた「米国主導の秩序」が、もはや日本の安全と繁栄を保証するものではなくなったという、厳然たる事実の可視化である。
本稿では、この新たな現実を直視し、日本が取るべき戦略的選択肢を、イランとの直接取引という具体的な一手を軸に論じる。それは、単なるエネルギー調達策の変更ではなく、日本が「従属」から「主体」へと転換するための、最初の一手なのである。
6月17日に署名された14項目のイスラマバード覚書は、60日間の交渉期間を定め、最終合意すれば3,000億ドル(約48兆円)の復興資金と「あらゆる制裁」の解除を約束する内容だった。しかし、この覚書はそもそも「米国が戦いを仕掛けた理由だったはずの核問題を先送りし」たものであり、イスラエル・レバノン問題を組み込んだことで極めて不安定な構造を抱えていた。
そして6月26日、米中央軍は「イランが覚書に基づく停戦に明確に違反した」として攻撃に踏み切った。だが同時に、トランプ政権高官は「米軍の攻撃は商船攻撃への報復に過ぎず、停戦は維持されている」と矛盾するメッセージを発した。この混乱は、米国自身が覚書の価値を確信していないことを如実に示している。
イランは6月20日、レバノンでのイスラエルの攻撃と米国による停戦合意違反を理由に、ホルムズ海峡の封鎖を宣言した。イラン外務省は「海峡は開いている。敵対者に対してのみ閉鎖されている」と説明し、事実上の管理権を主張している。
東京大学大学院教授の鈴木一人氏は、イランがシンガポール船籍の貨物船を攻撃した意味をこう解説する。「イランがホルムズ海峡を管理していることを明示的に示し、イランの意思に従わない船は攻撃されるリスクを負っていると警告するため」であり、これが「事実上の封鎖」の実態だ。
この認識は極めて重要だ。ホルムズ海峡の開閉は、もはや国際法や国連決議ではなく、イランの政治的判断に完全に依存している。米国でさえ、これを強制的に変える力を持たない——事実、米軍の攻撃は「大規模な戦闘行動の再開ではない」と釈明するのが精一杯だった。
ここで一つの逆説が浮かび上がる。イランがホルムズ海峡を封鎖する主体であるならば、イランは「自らが封鎖した海峡」を通じて、特定の国(例えば日本)の船舶を通過させることを選択できる。これは主権国家としての当然の権利であり、米国でさえこれを「違法」と断じることは難しい。
実際、日本政府はすでにこの論理を現実のものとしている。2026年4月29日には出光興産のタンカー「Idemitsu Maru」がイランの許可を得てホルムズ海峡を通過し、名古屋に向けて出航した。5月14日には2隻目の日本向け原油タンカーがペルシャ湾を出航し、イラン大使館は公にその通過を認めている。日本はすでに「イランの許可を得た通航」という新たなルートを現実のものとしているのである。
「イランと石油売買契約は長期契約としてホルムズ海峡が封鎖されようと問題ありません。封鎖をするのはイランですから。米国には何もできません。」
この論理は、国際政治の現実を冷静に直視している。米国がイランに「海峡を開け」と命じることはできても、実行させる力はない。そして、米国が日本に対して「イランと取引するな」と圧力をかけたとしても、日本がイラン船・イラン保険・イラン護衛という形態で取引を完結させる限り、米国の制裁網を完全に迂回することは技術的に可能である。
8月21日というデッドラインは、米国とイランの間の政治的な期限に過ぎない。日本とイランの長期契約は、その枠外にある。
同時に、ロシアからのエネルギー調達も継続すべき現実的な選択肢だ。米国は日本によるサハリン2プロジェクトからのLNG輸入を認める特例措置を2026年12月18日まで延長しており、サハリン2のLNGは日本のLNG総輸入量の約9%を占める。この「つなぎ」を維持しつつ、中長期的な依存脱却を図る——それが現実的な戦略である。そして12月18日以降の契約もすれば良い。
ここで、一つの厳しい現実に向き合わねばならない。日本の政治家や官僚は、このような「常識的な」戦略を実行に移すことが事実上できない。
その理由は明確だ。日本の政治エリートは「米国との同盟」という前提を破ることに本能的に恐怖を抱いている。それはキャリアの終わりを意味し、場合によっては政治生命(そして物理的な生命)そのものを奪うからだ。また、日本の官僚機構は「前例のない決断」を拒絶する——イランとの直接契約は「前例がない」という理由だけで、検討すらされない可能性が高い。
この構造的欠陥は、日本が「米国第一」の枠組みの中でしか思考できないという、深刻な知的依存症を示している。日本が真の意味で「国民第一」の政策を実行したいのであれば、この思考の枠組みそのものを破壊しなければならない。
しかし、ここに戦略的なチャンスがある。米国は日米同盟を自ら破棄することはない——少なくとも、日本が先に動かない限りは。
その理由は単純だ。米国にとって日本は「中国への最前線基地」であり、この地理的・戦略的資産を失うことは、米国のインド太平洋戦略の根幹を揺るがす。米国は「日本が先に離脱した」という物語を最も恐れている——それは米国の同盟ネットワーク全体の信頼を損なうからだ。
実際、米国は日本の「独立志向」を強く警戒しながらも、同盟関係の維持を最優先している。ベセント財務長官の訪日や為替協調は、その証拠である。日本が主体的に動き、米国が同盟維持を選択する——この非対称性を戦略的に利用することが可能なのである。
私たちは、「ゆっくりと独立体制に移行する」という選択肢をすでに失っている。米国の衰退は加速し、このまま米国という船に乗り続けることは、もはや安全な選択ではない。
では、何をすべきか。
第一に、イランとの直接交渉を開始せよ。これは単なるエネルギー調達策ではなく、日本が「米国の枠組み」の外で独自の外交関係を構築するという、戦略的シグナルである。
第二に、ロシアからの調達を最大化せよ。特例措置が切れる前に、戦略的な買い付けを実施せよ。
第三に、米国債の戦略的売却を進めよ。その資金を現物資産——石油、LNG、食料、レアアース代替材料——に変換せよ。
第四に、国内のエネルギー・食料自給率を劇的に引き上げる構造改革を実行せよ。
これらの策を同時に実行することは、確かに「痛み」を伴う。国債の格下げ、輸出産業の打撃、国際的な孤立のリスク——それらは現実のものとなるだろう。
しかし、日本に必要最低限のエネルギーと食料があれば良い——その最低限を確保するためのコストとして、これらの代償は決して高くない。中国の属国になることだけは、絶対にあってはならない。
日本は既に孤立している。そして力もない。しかし、孤立しているからこそ、自らの意志で行動する以外に道はない。
「今」という決断を下せ。イランの石油を、イランの船で。それは、日本が「従属」から「主体」へと変わる、最初の一手となる。
——世界は変わった。日本も変わらねばならない。