チャンネル:金融プロの本棚・三井|書籍:大村大次郎『お金の流れで探る現代権力史』(KADOKAWA、2016年)
本稿は『【本要約】お金の流れで世界史を読むと覇権国の正体が見えてくる』(https://youtu.be/svtS5PyZ9NM)の内容を参考にして各項目を分析し、再構成した報告です。
世界で最初に覇権を握ったのは産業革命を成功させたイギリスだと習った方が多いが、この本はその順番がそもそも逆だと言う。産業革命を起こせたのは、その前に莫大な元手を手にしていたからである。ではその元手はどこから来たのか。答えは、国を挙げての海賊行為だった。
大航海時代の主役はスペイン、ポルトガル、オランダである。海に出るのが遅れたイギリスには、もう奪える土地が残っていなかった。そこで王室が目をつけたのが、時の海賊たちだった。王室は彼らに自分たちで作った船を与え、国家の事業として襲わせた。海賊行為そのものは当時どの国も多少はやっていたが、国家ぐるみでこれほど大規模に行った国は他になかった。その代表がドレイクの大航海である。彼は世界一周を成し遂げ、金、銀、絹、香料を船いっぱいに積んで帰ってきた。女王はこの収益で国の借金を全て返し、残りを地中海の貿易に投資した。国家ぐるみの略奪がそのまま国家の投資資金になったのである。
やがてこの海賊船団は統率の取れた海軍へと育ち、財政が苦しく整備も行き届いていなかったスペインの無敵艦隊を破る。そして旨味のある貿易と植民地を力づくで引き継いだ。ただ、著者が本当に注目しているのは海賊そのものではない。組織と制度を大きく合理的に作り替える力の方である。
例えば1215年のマグナ・カルタ。国王が勝手に税金を決めてはならないという約束を、まだ中世のうちに文書にしている。合わせて、国民は法によらずに罰せられたり財産を奪われたりしてはならないという原則も書き込まれた。当時の王というのは好き勝手に課税して浪費し国力を傾けてしまうのが当たり前で、似たようなことがヨーロッパ中で繰り返されていた。スペインは新大陸で銀山を掘り当てて莫大な金銀を手にしながら、王がやたらと戦争をするせいで財政はいつも火の車だった。つまり勝敗を分けたのは、持っている金銀の量ではなく、それを無駄に使わない仕組みがあったかどうかだった。財産が守られる国にしかお金は集まらない。
そしてもう1つの発明が、お金を借りる仕組みである。1693年に国債の法律ができ、その翌年には中央銀行であるイングランド銀行が作られる。政府の借り入れ窓口を1本にまとめ、民間から集めたお金で国債を引き受けさせる。これで政府は安い利子で安定して巨額の資金を集められるようになった。数字で見ると差は明確である。ライバルのフランスが5から6%で借りていた時、こちらは3%程度で借りられた。戦争が続いた時代に、この利子の差はそのまま軍事力の差になる。
海軍については、第2位と第3位の国の戦力を合わせても勝てないだけの規模を保つという方針を掲げていた。そして商売で不利になれば遠慮なくその力を使った。1840年のアヘン戦争がその典型である。中国からお茶を買いすぎて銀が流出したので、インドで作った麻薬をこっそり中国で売り、その代金でお茶を買うという三角貿易を始めた。中国政府が禁止したら艦隊を送って戦争にした。経済の都合がそのまま戦争の理由になっていたわけである。
イギリスは通貨の制度もどの国より早く整えた。1816年に金を基準とする制度を導入し、その5年後には通貨と金をいつでも交換することを世界に向けて保証する。ケインズの分析では、それからおよそ90年の間、物価の変動はプラスマイナス3%の幅を超えなかったという。だからポンドは基軸通貨になっていった。工業生産では19世紀後半にアメリカに抜かれ、20世紀初めにはドイツにも抜かれた。それでも覇者の座は譲らなかった。世界の金融の中心であり続けたからである。やっていたのは、他国の国債を引き受け、保険をかけ、為替を取り仕切ることだった。アメリカの鉄道の大半はイギリスの投資で建設され、日本が日露戦争の軍費を集めたのもロンドンの市場だった。
その金庫の鍵が動いたのは第一次世界大戦だった。島国であるイギリスはドイツの潜水艦に海を封鎖され、輸出も輸入も止まってしまう。主力だった繊維製品を植民地に売ることができず、原料も食料も入ってこない。危うく干上がるところだった。そしてその開いた市場を取ったのが日本だった。
一方で、生産力が落ちたヨーロッパは戦場から遠いアメリカに大量の軍事物資を発注する。するとわずか数年で立場が入れ替わった。世界一の借金国だった国が、世界一のお金の貸し手になったのである。しかもちょうどこの時期に、エネルギーの主役が石炭から石油に変わり、当時世界一の産油国だったのがアメリカだった。世界一の工業国、世界一の債権国、そして世界一の産油国。3つの冠が同時に揃った。
本来の仕組みなら、貿易の黒字で金が増えればお札も増え、物価が上がって輸出競争力が落ち、黒字は自然に縮む。ところが1920年代のアメリカは、この自動調整を働かせなかった。金が入ってきてもその分だけお札を増やさないよう中央銀行が打ち消したのである。これで物価は上がらず、競争力も落ちず、黒字と金がますます積み上がった。1923年末の時点で世界にある金の4割を一国が抱えることになった。一方的に金が吸い上げられる世界は健全ではない。市場はそれを先に読み、1929年に株価が大暴落する。世界恐慌である。
さらに、同じ連合国に売った武器の代金も戦後きっちり取り立てている。支払いに追われたイギリスとフランスは、その分をドイツへの賠償金として付け替えた。だからドイツはハイパーインフレを起こし、経済も社会も壊れていった。
ここで意外な事実を挟む。恐慌の後、イギリスやフランスは自分の植民地を囲い込むブロック経済を始めたが、あれを始めさせたのは実は日本である。戦前の日本は繊維製品の輸出大国で、昭和の初めには綿製品のシェアでイギリスを追い抜き、しかも売り込み先はインドやオーストラリアといった相手の植民地だった。そこでイギリスが取った手が輸入規制であり、これがブロック経済の出発点だった。市場が閉じたことで、大量の農産物と工業製品を抱えたアメリカが市場を失い、次の大戦の遠い原因になっていく。歴史の教科書では別々に書かれている出来事が、お金の流れでは1本につながっている。
戦後、アメリカは第二次世界大戦でも本土が無傷で、世界の金の7割を抱えるまでになっていた。1944年のブレトン・ウッズ会議では、ドルを金と交換することを保証する代わりに、ドルを世界の基軸通貨にすると強く主張する。復興の資金を頼る立場だったイギリスは受け入れるしかなかった。その次の年、融資を求めてきた相手には、見返りとして囲い込みの解体まで求めている。
そしていよいよ援助が動き出する。金額は102億6000万ドル。1948年から1951年までの合計で、相当な部分が返さなくていい贈与である。太っ腹に見えるが、これは人道主義ではないと著者は言い切る。当時のアメリカの輸出は160億ドル、ところが輸入はその半分しかなく、差額を払うためのドルも金も相手側にはもう残っていなかった。買えなくなれば輸出が止まり、大量の失業者が出る。だから買える体力を付けさせたのである。そして使い道も厳しく決められ、概ね自国の農産物や工業製品を買うためのお金だった。
ここがこの本で一番背筋が寒くなる部分かもしれない。
第一次世界大戦の時、イギリスは中東地域を巡って3者にバラバラの約束をしている。フランスにはこの地域を2国で分けようと持ちかけ、支配下にあったアラブの部族には戦争に協力すれば独立させると持ちかけ、そして資金力を頼りにしていたユダヤ社会にはパレスチナに居住地を作ると手紙で約束した。両立しない約束を3つ並べたわけである。大戦が終わると600年続いた帝国は解体し、この地域の国境が引き直され、今も続く混乱がここから始まった。お金が欲しかったから、将来の火種を売ったということである。
そしてもう1つの約束が交わされる。1945年2月、ヤルタでの会合の直後、ある巡洋艦の甲板で極秘の会談が持たれた。アメリカの大統領とサウジアラビアの国王である。内容は2つ。これから石油の取引の決済は全てドルで行う。その代わり、この王国が他の勢力に脅かされた時は軍を出して守る。国王の伝記を始め複数の資料に残っており、ほぼ事実だろうと著者は書いている。
石油は産業の血液で、取引は途方もなく大きい。その石油がドルでしか買えないのであれば、石油が欲しい国はまずドルを買わなければならない。つまり何かを売らなくても、印刷機を回すだけで世界のお金が入ってくる状態ができたわけである。そしてもう一方の約束も守られてきた。世界のあちこちで民主化を求めてきた国が、アラブの王制に対してはほとんど何も言わない。その不思議さも、この密約を前提にすると説明がつく。
もちろん産油国もただ従っていたわけではない。1973年、エジプトとシリアがイスラエルに攻め込むと、産油国は揃って価格の引き上げと生産の削減に動き、イスラエルを助けた国には全面的な禁輸を行った。石油の値段は半年で4倍に跳ね上がった。石油を武器として使えることを世界に見せつけたのである。
ところがここで意外な事実がある。アメリカの金がどんどん外に出ていったのだ。しかも持ち出したのは敵ではなく、味方の西ヨーロッパだった。1960年代、アメリカはなるべくドルを金に変えないで欲しいと頼んでいた。ところがフランスはどこ吹く風とばかりに3億ドル分の交換を請求する。量にして300トン近い金である。しかも運ぶための護衛に自国の海軍を丸出しにした。西ドイツには、代わりにアメリカの兵器を買わせて流出を防ごうとしたが、駐留軍を引き上げるぞと脅した。この屈辱が後にドイツとフランスを組ませ、ヨーロッパ連合を作る動機にもなった。味方の間でも、お金の前では容赦がないということである。
こうして金は枯れていき、ついに1971年、金との交換が停止された。本来なら基軸通貨の資格を失う出来事である。だがドルは座を降りなかった。理由は2つ。1つは、ポンドも円もマルクも代わりになるほどの信用と使い勝手がなかったこと。つまり積極的な信用ではなく消去法である。もう1つが、石油の決済がドルのままだったことだった。こうして金と交換する義務から解放されながら、世界中が買ってくれる通貨だけが残った。
今の対外債務はおよそ7兆5000億ドル。世界一の借金国でありながら破綻しないのは、基軸通貨を刷れるからである。紙を刷れば世界が買ってくれる。そういう仕組みの上に今の経済が乗っている。
ではその仕組みに手を出すとどうなるのか。2000年、イラクのフセイン大統領が石油の取引をドル建てからユーロ建てに切り替えた。他の産油国が真似をすれば土台が崩れる。そしてイラク戦争が始まり、政権が倒れた後、石油の取引はすぐにドルに戻された。さらに皮肉なのはその後である。強権が消えた国では各民族の不満が吹き出し、追放された旧政権の軍の幹部たちが中心になって、後にイスラム国と呼ばれる組織を作った。油田を抑え、石油を密輸して資金にしていたと見られている。利権を守るための戦争が、結果として世界中をテロの恐怖にさらしたのである。
東と西の冷戦と言うと核とミサイルの睨み合いを思い浮かべるが、著者はあれは巨大な経済問題だったと言う。
まず軍事費である。国家予算の半分近くが軍事費だった時期もあり、半世紀にわたって戦争を続けているような支出が続いた。そしてもう1つが他国への支援である。どこかで紛争が起きれば当事国はどちらかの陣営に助けを求めてくる。断れば相手側に行かれてしまうので断れない。おまけに頼る側はしたたかで、エジプトは両方に色目を使い、片方からの援助が細くなればもう片方に近づいて毎年巨額の支援を引き出した。力でねじ伏せていたというより、世界中に気を使いお金を配り続けていたのである。
1980年代、アメリカの軍事費は3000億ドル近く、ソ連は2500億ドル程度だった。金額ではアメリカが上だが、経済の規模から見ればソ連の負担は比べ物にならないほど重く、もはや平時とは呼べない水準だった。アメリカも無傷ではない。1980年の時点では世界最大の貸し手だったのに、1985年には世界最大の借金国に転落している。おまけに味方の背中からも追い上げられていた。日本と西ドイツである。
ここで1つ思い込みを外しておきたい。西ドイツの戦後復興はアメリカの援助が大きかったから、軍事費がかからなかったからと説明されがちだが、援助の額は敗戦国には低く設定されていて、国民1人当たりではイギリスやフランスの半分以下だった。しかも占領されている間の経費は自分たちの負担で、その額は援助を軽く超えている。復興が早かった理由は、元々世界第2位の工業国だったという自力だった。
一方で東側の事情はもっと深刻だった。ソ連のように上から下まで計画で動かす仕組みは、壊れた国を立て直す時には力を発揮する。実際、戦後は資本主義では考えられない成長を見せた。だがそこから先に伸ばすには向いていない。ネジ1本まで計画で割り振られるので現場の工夫が反映されず、どれだけ働いても給料は変わらない。技術も進まない。象徴的なのが机の上の機械である。1980年代、片方の国では3000万台のパソコンが使われていたのに、もう片方には5万台しかなかった。コピー機すら普及しておらず、外交官同士の会合で文書の複写に手間取って相手を待たせたという話まで残っている。
そこへ登場したのがゴルバチョフだった。大学で欧米の経済や思想も学んだ新しい世代の指導者である。彼が軍縮に走ったのも、軍事費を削らなければ経済の立て直しができなかったからだった。合わせて情報の公開も進めたが、これが解体を加速させた。公開された中身があまりに厳しかったのである。住宅の割り当てを待つ人が150万人、保育園の待機児童も150万人。定員600人の小学校に1500人を詰め込み、3部制で授業をしている地域がある。その一方で党幹部の子供は裏口で進学していく。こうして東側の国々が次々に離れ、1991年ソ連は崩壊した。
ついでにベルリンの壁もお金で説明がつく。1949年から1960年までに250万人が西側へ逃げた。東ドイツの国民の実に4分の1である。人がいなくなれば国は成り立たない。だから壁で囲ったのである。壁は思想の産物というより、人材の流出を防ぐための緊急措置だった。
ではこの終わり方で一番得したのは誰か。アメリカである。支出が一気に軽くなっただけでなく、唯一の超大国になったことで、味方に対しても強く出られるようになった。そのしわ寄せを受けたのが日本だった。例えば町の商店を守るための大型店の出店規制は、圧力を受けて最終的に2000年に廃止される。大型店が一気に増え、商店街は衰退し、買い物に困る高齢者が増えた。ヨーロッパの多くの国は同じ規制を今も残している。さらに1990年、当時の首相が内需拡大のために公共事業を約束し、その額は後の村山内閣で630兆円にまで膨らんだ。赤字国債をゼロにして財政を立て直した直後の国が、国家予算の数年分を箱物に注ぎ込んだのである。
ここまで見てきた覇権争いの裏側で、ある老大国が世界経済を根本から揺さぶる仕掛けを進めていた。著者がこれを経済テロと呼ぶほどのものである。それがタックスヘイブン、つまり税金のかからない場所である。
ポンドは信用を失い、基軸通貨の座を明け渡した。ロンドンのシティが世界の金融センターでいられたのは強いポンドがあったからで、その柱が折れた時、力を取り戻すために打った手がこれだった。起源は19世紀に遡る。老帝国イギリスの植民地への投資を増やすため、現地の会社の税金を安くしていた。すると世界中の企業が籍を置くようになり、登記の費用だけでも現地は潤った。だから戦後も税制はそのままにしておいた。
なぜ自国の中ではやらなかったのか。イギリス本土で税金をただ同然にするわけにはいかないし、先進国として金融の監視にも責任がある。だが世界に点在する海外なら話は別である。他国から抗議されても「あれは自治領だから我々の責任外だ」と言い逃れができる。実はこれ、お金の前から使われてきた手だった。海峡に浮かぶ島に他国の政治犯をかくまい、抗議されると「あの島は自治領だから」と押し返す。同じやり方を今度はお金でやったのである。
やったことは3つである。税金を安くし、会社の登記を簡単にし、さらに守秘義務の秘密主義まで取り入れた。こうして口座も法人も、よほどのことがなければ他国に開示されない場所が出来上がる。この場所はやがて脱税の受け皿であり、同時に犯罪で得たお金の隠し場所にもなった。
どれくらいの規模になったのか。代表的な島にはおよそ1万8857の会社があり、その半分はアメリカ系である。これだけでアメリカは1年で1000億ドルの税収を失っているとされる。さらに世界の銀行の半分以上、多国籍企業の海外投資の3分の1がこうした場所を通っていると言われる。
だからシティは今も世界の中心なのである。国際的な株取引の約半分がここで動き、外国為替の取り扱い量は1日あたり2兆7260億ドル。2位のアメリカは1兆2630億ドルで半分以下である。リーマン・ブラザーズが決算の数字を実際よりよく見せるために使った取引も、イギリスの子会社で行われていた。巨額の資金を動かすヘッジファンドもこの仕組みの産物である。普通の投資家は税金を払った残りしか再投資できないが、籍を税金のない場所に置けば儲けを全額次の投資に回せるからである。
ところがここに最大の皮肉がある。これだけのお金を動かしておいて、イギリス自身はほとんど得をしていないのである。手に入るのは取り扱い手数料だけ。シティの内側の人はそこそこ潤うが、外の人には恩恵がなく、自分の国の税収もむしろ失っている。
一方、世界に残った影響は深刻だった。大企業の法人税と富裕層の相続税は、各国が競うように下げられていく。抜け穴を使える企業は逃げられるので、引き止めるしかないからである。その代わりに引き上げられたのが、逃げ場のない消費税だった。使える側の負担が軽くなり、使えない側の負担が重くなったわけである。2016年のある調査では、わずか62人の富豪の資産が最も貧しい36億人分と同じだった。日本でも億万長者は134万人から273万人へ、およそ10年で倍増している。
1つ目。覇権を決めたのは軍隊ではなく、安く大量に資金を集める仕組みだった。税の原則、国債、中央銀行という制度を先に作った国が、後から工場と植民地を手に入れた。
2つ目。ドルが世界のお金になったのは豊かさの結果ではなく、市場をこじ開け、相手に購買力を配ったからだった。援助の裏にはいつも自国の売上があった。
3つ目。石油をドルで買うという1つの約束が今も世界を縛っている。それに触れた政権は倒され、その後の混乱から新しいテロ組織が生まれた。中東の火種そのものも、戦費を集めたいという都合から生まれたものだった。
4つ目。東と西の対立を終わらせたのは軍事力ではなく財政で、その請求書の一部は日本が払った。大型店の規制撤廃と630兆円の公共事業である。
5つ目。今の格差は税金の抜け穴という設計の産物だった。
どれも教科書では政治の話として語られる出来事である。だがお金の流れという1本の線を引くと、全部がつながって見えてくる。そして投資をする立場として覚えておきたいことがある。覇権を握った国はどこも最初は地味な制度作りから始めているということである。派手な勝ち方の前に必ず退屈な仕組みがある。仕組みを整えたところに後からお金が集まる。順番はいつもそうなっている。
著者は中国の経済はまだ崩れないと見ている。理由は意外にも、まだ貧しいからである。1人当たりの豊かさは日本の4分の1以下で、伸びる余地が大きい。国民の年収が日本の半分まで上がるだけで国全体の経済規模は今の2倍になる。やり方も巧みだった。自由に商売をさせておいて都合が悪くなれば強い権力で引き戻す。市場を一度に開くのではなく、沿岸部にだけ特別な区域を作り少しずつ開けていった。そこへ外国の企業を呼び込み、市場も技術も設備も持ち込ませた。場所と人を出すだけで産業が育つという方法である。
ただ懸念も2つある。列強に荒らされた100年の恨みと、14億人を養う資源の問題である。一方アメリカは、借金が一番多いのに一番威張っている国だと、かなり率直に書かれている。そして著者が最後に置いたのは、「覇権争いをしている場合ではない」という一言だった。環境と格差は人類の存亡に関わる問題だからである。どちらが勝つかではなく、どこにお金を流すのか、そこが問われている。