アメリカが日本経済を「一日」で破壊した日

世界を変えた“武器”

20世紀で最も破壊的な兵器は、核爆弾でも戦車でも空母でも弾道ミサイルでもなかった。 主権国家に対して史上最も大きな打撃を与えた「兵器」は、一本の万年筆であった。 1985年9月の雨の日曜日、5人の男がニューヨークのプラザホテルの一室に入り、重いオークの扉を閉め、数時間後、世界から5兆ドルの富を事実上消し去る文書に署名した。 爆発音も悲鳴もなかったが、その瞬間、世界で2番目に強大な経済大国の運命は決定づけられた。

見えなかった「経済暗殺」

表向きには為替調整のための外交会議にすぎなかった。 しかし、機密電報や当事者の日記を後に研究した歴史家たちにとって、それは「経済暗殺」に他ならなかった。 それを仕掛けたのは、自らの覇権が脅かされつつあることに怯えた超大国、アメリカである。 これは、「冷徹な地政学的判断」によってアメリカが最も親密な同盟国・日本の背骨を折る決断をした物語である。 そして、それは1941年の軍事帝国ではなく、1989年の経済帝国であった日本がどのようにして自滅へと追い込まれたのかを描く物語でもある。

灰からの再生──吉田ドクトリン

1945年、第二次世界大戦の終結時、日本は単なる敗戦国ではなく、灰に帰していた。 66の主要都市は焼夷弾で焦土と化し、東京は木と灰の「月面」に変わった。工業生産は停止し、国民は餓え、通貨は紙屑同然だった。 だが、その廃墟の中で一つの計画が立ち上がった――吉田ドクトリンである。 日本は国防を完全にアメリカに委ね、自らは軍備に一切資金を費やさず、あらゆる国家資源を経済成長へと注ぎ込むことを決断した。 アメリカが冷戦や核兵器開発に数兆ドルを費やす一方、日本は40年をかけて世界で最も効率的な製造システムを築いた。 日本はトランジスタを発明したわけではない。だが、より小さく、より精密に作り上げた。 自動車も同様で、信頼性という概念を世界に広めた。 1960年代、日本経済は年率10%で拡大し、1980年代初頭には「師を超えた生徒」となった。 日本は欧米の産業を一つずつ解体し、遂にアメリカを自動車生産で凌駕したのだ。

貿易摩擦とアメリカの逆襲

1985年、アメリカの貿易赤字は1485億ドルという過去最大規模に膨れ上がり、そのうち3分の1が日本によるものだった。 ピッツバーグの製鉄所やデトロイトの自動車工場が次々と閉鎖され、数万人が職を失い、「ラストベルト(錆びついた地帯)」が誕生した。 国内の空気は敵意に満ち、政治も暴走した。 1987年、米議員たちは連邦議会前の芝生で東芝製ラジオをハンマーで叩き壊し、デトロイトでは失業した労働者が中国系アメリカ人男性を日本人と勘違いして殺害する事件まで起きた。 ホワイトハウスではレーガン大統領が議会からの圧力に苦慮していた。 超保護主義法案が浮上し、日本製品に100%の関税を課そうという動きまで出ていたのである。 自由市場主義者であるレーガンは、世界経済秩序を破壊せずに日本の優位を崩す方法を求め、財務長官ジェームズ・ベイカーに目を向けた。

プラザ合意──仕組まれた罠

当時、円は1ドル=240円前後と過小評価されており、日本製品の輸出を強力に後押ししていた。 ベイカーの構想は驚くほど単純で残酷だった。「円を2倍に値上げさせる」のだ。 これにより、日本車の価格は一気に倍増し、米国内の貿易赤字は解消される。 だが、そのためには主要5カ国(G5)による為替協調――そして「犠牲者である日本自身の同意」が必要だった。 1985年夏、ベイカーは西ドイツ、フランス、英国、日本の財務担当者に秘密の招待状を送った。 目的地はニューヨーク・プラザホテル、9月22日。 日本の大蔵大臣・竹下登は極秘の旅を演出。出発当日の朝は東京でゴルフをするふりをし、報道陣を欺いて成田空港へ直行した。 彼は「日米同盟を守るための協議」だと信じていたが、実際には日本経済を首の皮一枚で締め上げる罠に足を踏み入れていたのである。

運命の日

プラザホテルの「ホワイト・アンド・ゴールド・ルーム」。 ここでベイカーは世界経済の半分を支配する5人の大臣に条件を突きつけた。 数時間後、「ドルに対して“秩序ある通貨上昇”が望ましい」とする短い文書――プラザ合意が署名された。 翌日の市場は即座に反応した。ドルは暴落し、円は急騰。 1985年末には1ドル=200円、1987年には120円へ――わずか2年で円の価値は2倍に跳ね上がった。 輸出企業は「数式上の悪夢」に陥った。利益を生んでいたウォークマンも為替変動で赤字に転落。 大阪・名古屋の工場は停止し、日本の鉄鋼・造船業は壊滅。いわゆる“円高不況”が始まった。

バブル経済──熱狂と崩壊

恐慌を恐れた日本政府は内需拡大で景気を支えようとした。 1986年、日本銀行は公定歩合を5%から2.5%に引き下げ、歴史的な超低金利政策を実施した。 その結果、「史上最大の金融バブル」に火がつく。 企業は製造よりも金融を選び、株や不動産投機に資金を注ぎ込んだ。 多くの大企業は、本業よりも財務部門による投資益の方が大きくなり、日本全体が「巨大なヘッジファンド国家」と化した。 土地価格は狂気的に上昇し、1989年には東京・銀座で1㎡あたり3,000万円を超えた。 日本全土の地価総額はアメリカ全土を4倍も上回り、経済合理性は完全に崩壊した。 皇居の敷地だけでカリフォルニア州全体よりも高値で評価されたという逸話は、狂乱の象徴として今も語り継がれている。

腐敗と崩壊の連鎖

ゴールド入り寿司、1億円のゴルフ会員権、ゴッホやルノワールの絵画購入――バブル期の日本は金と虚飾に酔いしれていた。 だが、その華やかな表層の下では、腐敗と債務が社会の骨まで侵食していた。 銀行は審査を放棄して貸し込み競争を続け、「ジュビローン」という返済不要の異常商品まで登場した。 暴力団は不動産取引に入り込み、脅迫と強制立ち退きで莫大な利益を上げ、 大蔵省と政治家は増税の好機とばかりに甘い汁を吸った。 リクルート事件などの汚職が続発し、「成長」はもはや国家的詐術と化した。 そして1989年12月29日――バブルの頂点で日経平均は史上最高値を記録。 だが翌1990年、株式市場は暴落を始め、わずか8ヶ月で半値となり、数兆円の富と国民の資産が消えた。 不動産も崩壊し、地価は8割下落。銀行は「不良債権の山」を抱えて機能停止に陥った。

失われた30年の始まり

企業倒産が相次ぎ、経営者の自殺が社会問題化した。 終身雇用という社会契約も崩れ、戦後日本を支えた「希望と自信」は完全に失われた。 1990年代、日本は「失われた10年」と呼ばれる停滞期に突入する。 それはやがて30年に及ぶデフレと閉塞の時代となり、かつての経済覇権国は「過去の教訓」として世界に語られるようになった。 この崩壊は単なる市場調整ではなかった。 1985年のプラザ合意、それ自体が仕組まれた“構造的解体計画”だったのだ。 アメリカは日本を戦わずして打ち倒した――為替という見えない武器で。

プラザ合意の遺産

1990年代に残されたのは、政府に支えられてゾンビ化した銀行、非正規にしか職を得られなかった若者世代、 経済的不安により低下した出生率、そして長期デフレである。 そのすべての根源は、プラザホテルで交わされた一本の署名にある。 日本が「紙幣を刷って出口を探す」悪循環に入ったことで、回復は長期化した。 この日本のバブル崩壊の物語は、地政経済の世界では「同盟」と「標的」の境界など存在せず、 最大の侵略は「援助」の仮面をかぶって訪れる――という事実を証明している。

出典: Econ Empires - How the U.S. Murdered Japan’s Economy (In One Day)