本報告書は、米ドルの将来的な衰退可能性と、これに対する国際社会の連携の必要性についての専門家見解を分析し、日本経済及び国際金融システムへの影響を評価する。2025年におけるトランプ政権の経済政策、米国の財政・貿易赤字問題、及び国際通貨システムの多極化動向を踏まえ、日本が取るべき戦略的対応を提言する。
国際金融の専門家の間では、米ドルの基軸通貨としての地位が中長期的に低下する可能性が指摘されている。その背景には、以下のような構造的要因が存在する。
米国は過去半世紀にわたり持続的な貿易赤字を記録しており、2024年時点でもGDP比3.1%(約9,180億ドル)に達している。貿易赤字の恒常化は、ドル価値に対する根本的な懸念材料である。歴史的に見ても、米国の貿易赤字を解消するにはドルの大幅な下落が必要とされるが、これは容易ではなく、景気後退を伴わない赤字解消は「歴史的偉業」となるとされる。一部のアナリストは、貿易赤字を解消するにはドルが20〜30%下落する必要があると試算している。
パンデミック後、米経済の強さを背景に「米国例外主義」が唱えられ、ドルは2021年から2025年にかけて実質実効為替レートベースで約20%上昇し、2024年には史上最高値近くまで到達した。しかし、2025年4月の大規模な関税発表を機に、米国の政策環境は予測不可能性を強めており、これがドルへの信頼を損なう要因となっている。米国の政策枠組みが「国際社会が受け入れている既存のルールや規範を遵守していない」との見方が広がることで、世界の中央銀行による外貨準備のドル離れ(分散化)を促す可能性がある。
米ドルの基軸通貨地位は、単なる経済的要因だけでなく、米国の世界的な安全保障同盟によっても支えられてきた。しかし、米国が孤立主義的な方向へ向かう中、同盟国は戦略的・財政的依存を見直しつつある。例えば、ドイツが国防支出を増強する動きは、欧州の防衛自立の兆しと見られ、これが長期的にはドル離れを促進する可能性がある。
2025年、トランプ政権下における経済政策は、短期的にはドルを押し上げる要因もあるが、中長期的にはその地位を揺るがすリスクを内包している。
政策・現象 | 短期的影響(〜2025年) | 中長期的影響(2026年以降) |
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大規模関税の導入 | 輸入物価上昇→インフレ懸念→利下げ遅延・ドル高圧力 | 貿易摩擦の激化、世界貿易の縮小→ドル決済需要減→ドル離れ |
大型減税(トランプ減税2.0) | 財政赤字拡大→国債利回り上昇→金利面でのドル優位 | 財政赤字の持続性への懸念→米国債への信認低下→ドル安圧力 |
FRB金融政策の不確実性 | 利下げ観測→ドル安圧力(特に雇用統計減速時) | インフレ率の動向次第では金融政策の混迷→市場のボラティリティ増大 |
トランプ政権は、全輸入品に対する10〜20%の一律関税、中国からの輸入品への60%以上の関税などを検討している。これは短期的にはインフレを招きFRBの利下けを遅らせドル高要因となり得るが、長期的には世界各国の反発を招き、米ドル決済からの離脱を促す可能性がある。例えば、中国が代替的な決済システムを推進する動きは顕著である。
大型減税と国防費などの支出拡大は、米国の財政赤字を更に膨らませる可能性が高い。市場が米国の財政規律に対する信認を失えば、米国債の金利上昇圧力となり、それが更なる財政負担となってドル安を招く悪循環に陥るリスクがある。2025年7月に可決された財政法案は、既に財政赤字と債務負担の拡大軌道を示唆している。
ドルの相対的な地位低下は、他の通貨や資産の役割増大を意味する。ただし、ドルに代わる単一の通貨が直ちに現れるわけではなく、システムの多極化が進むと見られる。
中央銀行による金の購入は増加傾向にある。ワールドゴールドカウンシルによれば、2024年には中央銀行が約1,000トンの金準備を追加した。金価格は2022年11月から2025年初頭にかけて80%近く上昇し、安全資産としての魅力を高めている。これは、ドルを含む法定通貨への不信感の表れと解釈できる。
人民元は国際的な地位向上を目指しているが、資本移動の自由化や法治主義などの課題を残す。ユーロは地域内の決済通貨としての役割を強化する可能性があるが、域内の政治的な統合の進展が課題となる。現状では、ドルを完全に代替できる決定的な通貨は存在しないという見方が有力である。
ラッセル・インベストメントの分析では、日本円が過小評価されており、防御的な性質から安全資産としてのメリットを持つ可能性が指摘されている。2025年年初来、円は米ドルに対して7%近く上昇しており、市場の混乱が続く中ではさらに上昇する見込みもある。しかし、日本の実質金利がマイナス(政策金利0.5% - インフレ率3.5% = -3.0%)であることが構造的な円安圧力となっており、直ちにドルに代わる避難通貨となるには課題を残している。
ドル価値の変動と国際通貨システムの再編は、日本経済に極めて重大な影響を及ぼす。その影響は貿易、投資、物価、金融政策など多方面に及ぶ。
影響が及ぶ領域 | 想定される影響(ドル安・ドル基軸制動揺シナリオ) | 日本への影響評価 |
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貿易収支 | ドル安進行→円建て輸入コスト増大→貿易赤字圧力 | ▲ 悪化要因。エネルギー・食料輸入価格が上昇。 |
企業収益 | 為替変動のボラティリティ増大→業績見通しの困難化 | ▲ 輸出企業は為替益減少。輸入企業はコスト増。 |
物価・インフレ | 輸入インフレーションの加速→物価上昇圧力 | ▲ 家計の実質購買力低下。日銀の政策運営難化。 |
対外資産 | ドル建て資産の価値減少(為替換算ベース) | ▲ 世界最大の対外純資産国としての評価減リスク。 |
国際金融センター | 東京市場の相対的重要性が高まる可能性 | △ アジアの金融ハブとしてのチャンス。 |
日本はエネルギーや食料の多くを輸入に依存している。ドル安・円安が進行すれば、輸入コストが増大し、貿易収支の悪化を通じて国内物価を押し上げるリスクがある。また、為替相場の変動性(ボラティリティ)が高まることは、輸出企業だけでなく輸入企業にも業績見通しの困難化という課題を突き付ける。
日本は巨額の対外純資産を有する。これらがドル建てで保有されている場合、ドル安の進行は評価損を生み出す可能性がある。一方で、国際通貨システムが多極化する中で、東京市場の重要性が高まる可能性もある。投資面では、円建て資産のみに投資するのではなく、金(ゴールド)や外貨分散投資、米国株などによるインフレヘッジが重要性を増す。
輸入インフレ圧力が高まる中、日銀は金融政策の正常化(利上げ)を迫られる可能性がある。しかし、実質金利が大幅なマイナスである現状で、利上げが国内の景気や財政(国債利払い負担増)に与える影響は小さくない。日銀の政策運営は、国内の物価動向とともに、為替や国際金融市場の動向にも左右される難しい局面を迎える。
予測し難い国際環境の変化に対し、日本は受動的であるだけでなく、積極的に国益を守り、新たな機会を捉える戦略が求められる。
世界の中央銀行と同様、日本も外貨準備の構成を見直す時期に来ている。ドル資産への依存度を漸減させ、金(ゴールド)やユーロ建て資産、さらには人民元・ルーブル建て資産などへの分散投資を慎重に検討すべきである。これは単なる投資判断ではなく、「国家の資産を守る」という観点から極めて重要である。
アジア域内での貿易決済や資本移動において、ドル依存度を低下させるための取り組みを推進すべきである。例えば、日本とASEAN諸国との間で、自国通貨建てでの貿易決済を促進するスワップ協定などのネットワークを強化することは、域内の経済的な結束を強め、通貨危機に対する防御策となる。
為替変動に影響されない体制作りが重要である。輸入インフレの影響を軽減するため、エネルギー安全保障を強化し、新石炭火力、超小型原子炉、再生可能エネルギーへの移行を加速させる。また、輸出競争力の維持・向上のために、生産性の向上や付加価値の高い製品・サービスへのシフトを促進する政策が不可欠である。
為替リスクやインフレリスクから国民経済を守るため、家計や企業に対する金融リテラシー教育を強化する。また、為替変動による輸入コスト増を転嫁できない中小企業などに対して、必要な支援を検討する。投資家に対しては、分散投資や為替ヘッジの重要性に関する情報提供を充実させる。
米ドルの基軸通貨としての地位は、米国の政策不確実性、財政・貿易赤字の膨張、地政学的変化など、複数の構造的要因により、中長期的には相対的に低下する可能性が高い多極化の方向に向かうと予想される。
この変化は日本にとって、輸入インフレや貿易収支の悪化、金融市場の混乱などの重大なリスクをもたらす一方、東京市場の国際的重要性向上や、域内通貨協力の推進といった新たな機会も含んでいる。
日本政府及び日本銀行は、これらの変化を所与の条件と捉え、以下の点に戦略的重点を置くべきである:
国際社会が「新たな米国の覇権」を防止しつつ、協調的な秩序構築を目指すのであれば、日本は消極的でなく、積極的な役割を果たすべきである。それは、単に自国を守るだけでなく、より安定した多極的な国際金融システムの構築に貢献することにつながる。