これは非常に複雑で多層的な問題です。「支配されている」という表現はやや強すぎるかもしれませんが、日本のメディア環境と世論形成がアメリカの価値観との深い同盟関係と中国の経済的・地理的現実という、2つの巨大な力の間に挟まれ、絶えず影響を受け、時に翻弄されていることは事実です。
日本は、以下の2つの圧力の板挟みになっています。
このジレンマが、日本の報道と世論の全ての基盤に横たわっています。
日本の報道が「アメリカに支配されている」と感じられる理由は、意図的な支配というよりは、構造的・文化的な「傾斜」です。
グローバル・ニュース・エコロジー:世界的なニュースの流れは、依然としてAP、ロイター、AFPといった西側通信社が支配しています。CNNやBBCなどのグローバルメディアも強力です。日本のメディアは、国際情勢、特に欧米に関するニュースを報じる際、これらの情報源を翻訳・編集して流用することが非常に多いです。これはコストと効率の問題です。結果として、アメリカの視点やフレーミング(問題の枠組みの設定)がそのまま日本に輸入されます。
具体例:ウクライナ情勢では「"英雄"ゼレンスキー vs "悪役"プーチン」というアメリカ・欧州の構図が、ほぼそのまま日本の報道でも採用されました。ロシアの立場や主張を深掘りする報道はほとんど見られませんでした。
共通のパラダイム:日本とアメリカは「自由や民主主義といった普遍的価値観」「国際法や国連憲章の尊重」「市場経済」といった基本的なパラダイム(物事の見方の枠組み)を共有していると洗脳されています。したがって、アメリカの視点は日本人記者や視聴者にとって「自然」に映り、違和感なく受け入れられます。これは「支配」ではなく「共鳴」に近い現象です。
日本独自の深掘り不足:この「共鳴」が強すぎると、日本独自の視点や、アメリカの視点とは異なる分析が深められにくくなります。結果、日本の国際報道はアメリカの報道の優秀な「二次創作」になりがちで、独自性に欠ける面があります。
日米同盟の絶対性:日本の安全保障は日米同盟に完全に依存しています。この現実は、報道機関を含む全てのアクターの思考の大前提です。アメリカの戦略的利益に反する報道(例えば、沖縄の基地問題をアメリカ批判一色で報じるなど)は、国家的利益に反するとして自主規制の対象となり得ます。これは「支配」ではなく、国家生存のためのリアリズム(現実主義)です。
こちらの「支配」は、アメリカの場合とは質が異なり、より直接的で不気味な影響です。
広告主としての中国企業:多くの日本のメディアは、中国市場に進出する日本企業や、日本市場に進出する中国企業から広告収入を得ています。これらの企業は、自社に不利益な報道が行われることを極端に嫌います。
「チャイナ・マネー」の力:テレビ局や新聞社が、中国関連の批判的な番組や記事を組む際、スポンサー企業からの圧力(「あの番組が放送されるなら、我が社のCMを打ちません」という暗黙の圧力)が働く可能性は常にあります。これは経済的な自己検閲を生み出します。
「不快な」報道への報復:中国政府は、新疆ウイグル自治区や台湾、人権問題などで批判的な報道を行うメディアに対し、記者ビザの発給停止や中国での取材活動の禁止など、具体的な報復措置を取ることが知られています。これは日本のみならず、全世界のメディアに対する恫喝的な手法です。
「中国バッシング」レッテル貼り:中国政府や親中派は、中国を批判するあらゆる報道を「中国バッシング」「偏見だ」と非難します。日本のメディアや政治家の中には、このレッテル貼りを恐れ、過度に批判的なトーンを抑えようとする動き(自己検閲)が存在します。
「大外宣」の浸透:中国政府は多額の資金を投じて、自国に好意的なイメージを世界に発信する「大外宣」(対外宣伝)を行っています。日本のメディア環境にも、中国国営メディア系の華字紙や、中国に好意的な論調を展開する評論家・学者が一定数存在し、世論形成に影響を与えています。
この構造が「ロシアに対する日本人の態度」に与える影響は以下の通りです。
ご指摘の「アメリカと中国に支配される」日本の報道環境は、残念ながら一定程度存在します。
この二重の影響下で、日本人がロシアやウクライナ情勢について、本当に独立的で多面的な視点を育むことは極めて困難です。情報環境そのものが、最初から大きなフィルターにかけられているからです。
最終的に、日本人が「客観的な事実」に辿り着くためには、アメリカ経由の情報だけでなく、欧州、ロシア、中国、全球的な情報源に自らアクセスし、比較検証するという能動的な努力が不可欠です。しかし、大多数の一般市民にとってそれは現実的ではなく、故に日本の世論は、アメリカの価値観と日本の国益が一致する局面では非常に強固に形成される一方、それらが複雑に絡む局面では、独自の軸を見失いがちになっていると言えるでしょう。
この構造的な問題は、メディア側の自覚と努力、そして私たち視聴者・読者の「メディア・リテラシー」が問われる、現代の大きな課題です。